傷跡

 包丁で指を切った。水気を拭き取っていたのだけれど、少し汚れが気になって力んだところ指を滑らせ、かなり深くいった。お陰で傷跡が残り、もう半年近く経つ。この調子だと火葬されるまでは残り続けそうだ。無論その頃には老けてどれが皴でどれが傷かもわからないのだろうが、少なくとも今において、それは切った直後に包丁をシンクへ落とした記憶や、指に血を滴らせたまま友人に会った記憶などと共に克明に刻まれている。

 人差し指のこの傷跡は過去を思い出させるトリガーになるとはいえ、痛覚はとっくに時効を迎えている。これは日常生活の上でありがたいことに間違いはないのだが、一つ難点があり、忘れることが怖いのだ。例えば傷ができてから絆創膏を買いに行くまでの記憶があやふやなこと、当時の感覚が再現できないこと。こうした事実がなんとなく嫌だ。お前は何を言っているんだというような主張だが、このことは一般的な過去(過ぎ去り戻らない日々)を現在完了(have,すなわち所有の形式)と認識したい自分にとってはわずかながら問題である。自分にとって過去は所有しているものであり、したがって任意の体験は自由かつ鮮明に思い出したい。だから、忘却によってそれを振り返られなくなることが受け入れにくい。この点の原因を考えるにあたっては根源的に、存在の消失としての死への恐怖にまで遡れると思う。

 個人の意見だが自己の喪失と死は同時的だ。すなわち、自分を自分足らしめる根拠が失われていれば<わたし>は存在せず、したがって主観としては完全に死亡している(生の本質は体験にあると考えており、一人称の喪失は体験の不可能化と同義だからである)。さらに、自己とは定まりがたく、これまでの経験の総体の上でゆらりゆらりと動き続けるものだ。そこで自己の崩壊、あるいは死が怖いならば自己を安定させる土台としての経験をなるべく多く、確かな形で記憶したい。だから忘れることが怖い。

 ただ、わずかな問題だと前述したように、正直ここまで極端な思考はしていない。やはりどうこう言っても忘れてしまうのはもう仕方がないことで、その上で記憶をできるだけ多く保持できる方法を考えている。今考えているのは、記念日となりうるような日々が沢山あればいいのではないかということだ。英単語を文脈の中で暗記した方がそれ自体の意味のみならず運用方法といった周辺の知識まで明瞭に覚えられるように、特別な出来事の前後に取った何気ない行動は忘れにくいものだ。だから、それを思い返すことが自動的に広範な記憶の回想に繋がる契機となるような体験を増やしたい。ちょうど、この傷跡のような。